”豊葦原の瑞穂の国”、葦原である理由、知ってますか~!

日本のことを、”豊葦原の瑞穂の国(とよあしはらのみずほのくに)”、と古事記に記載されています。

 

”瑞穂”は、稲穂を指すとしても、なぜ”葦原”である必要があるのか、なんとなく不思議に感じてました。

その理由が、つい最近わかったのです!

 

それはコレ!高師小僧(たかしこぞう)!

この方、田中さんが指ではさんで見せてくださっているものが、”高師小僧”なのです。

 

 

こちらの本に詳しいです 『古代の鉄と神々』(眞弓常忠著、ちくま学芸文庫)。かなり面白かったです。

 

これまで、日本では日本人を貶める自虐史観が幅きかせてますから、すべて技術進歩は大陸から来た、と考えられてきました。

稲作に使う、鉄製のスキや鍬は大陸からもたらされたと考えられてきたんですね。

で遺跡遺物から、日本で鉄器の使用が始まったのは、紀元前400年~300年頃と言われています。

たたら製鉄技法が伝わって、日本で製鉄を始めたのが、紀元500年~600年とされていて、その間約1000年、鉄器を使っていたけれど作り方は知らなかった、というナゾのまま。だったそうなんです。

 

その空白を埋めたのが、

高師小僧なのです。

こ~んな風に、縄文土器をわんさか作っていた日本人は、簡単な炉をつくって、ふいごで送風し、製鉄を紀元前3世紀ころからしていた!ことがわかってきたんですね。

そしてこちら千葉県八千代市に、高速鉄道建設工事の際に、日本最古の製鉄遺跡が発見されました。

西暦300年くらいのもの、と近くで発掘された土器などの年代から推定されてるそうですが、もっと古いかもしれませんね。

 

結局、たたら製鉄以前に、こうした簡単な炉での製鉄がなされていたことがわかったんです。

簡単な炉ですと、焼成温度が低いため、鉄の純度が低いことにより、遺跡として残っていなかったため、これまで不明だったんですね。

こうしたいわば原始的な炉でどうやって鉄製品を作っていたのか、といいますと!

 

じゃ~ん、葦原!

こうした湿地帯で、渇鉄鉱(水酸化鉄の総称)の団塊が採取されていたのす。

日本は、火山が多いので、砂鉄は豊富なんですね。なんでもニュージーランド、カナダに並んで砂鉄の世界三大産地だそうです、日本!

資源がない、と思い込まされてますよね。

渇鉄鉱の団塊とは、水中に含まれている鉄分が沈殿して、さらに鉄バクテリアが自己増殖して細胞分裂を行い、硬い外郭を作ったものだそう。

こうした水辺の植物、葦(あし)、茅(かや)、薦(こも)などの根を地下水に溶解した鉄分が徐々に包んで、根は枯れてしまい、周囲に水酸化鉄を主とした硬い外郭ができる、それがこの、

3度目登場の高師小僧なのです!

面白いですよね~。それを集めてあの炉で製鉄して、稲作に不可欠な道具、スキや鍬を作っていたと考えられるんですね。

 

だっから、豊葦原の瑞穂の国だったんですね。

豊かな葦原で、鉄を集めてそれで稲作の道具を作り、そうして瑞穂が実る、そういう國なのですね、日本。

 

【1】八千代市立郷土博物館展示の、左端が鉄滓(てっさい)、製鉄の際に出る不純物だそうなんですが、この鉄滓の存在で、製鉄がなされていた証となるようです。

中央にあるのが、炉壁。穴掘って炉をつくる場をつくりますが、その底面側面を、粘土で覆ったそうなのです、その炉壁の一部。

 

こちらは同博物館所蔵の、平安時代の墨書土器。八千代市は、奈良市、多賀城市に並んで、この墨書土器の出土が多いそうです。

炭で文字を記載したものですから、当時すでに共通の日本語が奈良でも、東北の多賀城でも、八千代市でも使われていた、ということですね。

 

高師小僧の存在がわかったことで、このナゾも解明!

 

こちら、鉄鐸(てつたく)です。高師小僧がたくさん実りますよう、見つけられますよう、いわば豊作を願う祭祀に使われたようです。

それが、あの銅鐸に受け継がれていったようなのです。

銅鐸って、ず~っとナゾだったんですよね、一体なにに使っていたのか。ようやくいろいろわかって面白いです。

つまり、やっぱり日本人は縄文時代から、ものづくりに秀でていた、長けていた、ということがよくわかりますね。

 

【2】続いて向かったのが、埼玉一宮、氷川神社。

こちらの摂社、

 

 

門客人神社、アラハバキ神をお祀りしてるそうなのですが、

稲田姫のご両親のお名前が。

 

長い事、禁足地だったという”蛇の池”。こちらが氷川神社、発祥の地だったとか。

 

【3】続いて、さいたま市立博物館にて、縄文土器や

ちょっとヘタうま的な、埴輪。手前は女性、後ろの馬は、なんだか愛らしいですね。

 

いきなりですけど、”縄文海進”図。縄文時代は、温暖で水量が多く、印旛沼と霞ヶ浦はくっついていて、東京湾もかなり深くまでえぐられています。

日本人は、海洋民族だったんです。どこの遺跡でも大抵、長~い丸木舟が陳列されています。

 

 

結構人気のみみずく型土偶も。

江戸時代初期、17世紀の仏師、円空の作品も。

 

【4】続いて、中山神社へ、中氷川神社とも言われるそうです。

 

 

【5】最後に、氷川女体神社へ

なんだか素敵な佇まいですよね。

素戔嗚尊(すさのおのみこと)の奥さま、稲田姫がご祭神のため、女体神社と。

氷川神社、氷川女体神社、中山神社、3社合わせて、氷川三社とされるのだそうです。

 

というわけで、田中英道先生、今回もありがとうございました!

 

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