旅のトリは、やっぱり法隆寺
■蘇我馬子が建立、飛鳥寺へ
596年日本初の本格仏教寺院である飛鳥寺がつくられます。蘇我馬子が建立したこの飛鳥寺といえば!
飛鳥大仏ですね。止利仏師(とりぶっし)の作と日本書紀に記述されています。(飛鳥寺は、写真OKでしたのでありがたいです)
法隆寺の名高い釈迦三尊像(下の写真は、『法隆寺とパルテノン』田中英道著、祥伝社より)と同じ作家です。
こちらの飛鳥大仏ですが、銅製で銅15トン、黄金30キロ使ったそうです。仏教伝来が6世紀半ばと言われています。
この像の完成が606年。極めて早いですよね。しかも銅製で像高は275センチ。もともとは大きな後背もあったそう。
銅でこれだけ大きなものを作る技術、どこからもたらされたのでしょうか。
しかもこのお顔、
鼻が高く日本人ぽくないですよね。
飛鳥寺は、鎌倉時代1158年に落雷のため、本堂と金堂を消失。こちらの大仏さまも燃えてしまったのですが、黄金が溶けて銅部分は残ったのが、今日のお顔だそうです。
お体部分は、お顔に合わせて鎌倉時代に作られたそうです。
こちらは、大仏の左側にあります聖徳太子孝養像(十六歳像)。
父、用明天皇の病気回復を祈願している姿だそうです。
本堂でお話伺いました。
そうそう、こちらでは”蘇(そ)”という当時のお菓子を扱っています。
牛乳を凝縮したカッテージチーズのようなものでした。売り切れてましたので試食品だけいただきました。
かすかな甘味が芳しく、素朴なお菓子といった感じでした。
そう、この時代、乳製品などが持ち込まれていたのです。従来言われているような中国朝鮮から、というよりもっと西方っぽいですよね。
(飛鳥寺、南門)
こちらの西門の100メートル西に、蘇我入鹿の首塚があります。
645年、山背大兄王一家殺害など蘇我氏の蛮行を封じるべく、蹴鞠(けまり、サッカークラブって感じでしょうか)で知り合った中大兄皇子、中臣鎌足が、蘇我入鹿殺害を計画。
三国の調の儀式、という儀式が執り行われた飛鳥寺南にある飛鳥板蓋宮にて、中大兄皇子、中臣鎌足たちによって首をはねられます。
入鹿の首が宙を舞う、有名な絵がありますね。江戸時代に描かれたそうです。
伝承によれば、その時切り落とされた首は飛鳥板蓋宮から約600~650m離れた地まで飛び、そこに首塚がつくられたそうです。
(中大兄皇子のイラスト)
■聖徳太子がお誕生、橘寺
続いて橘寺へ。
572年、用明天皇の別宮、橘の宮があったこの地で、聖徳太子がお生まれになられたことから、お寺を建立することになったと伝承されています。
こちらが本堂
観音堂
本堂右手前が、聖徳太子の愛馬、黒駒像。
■旅のメイン、法隆寺へ
南大門を入りますと、
中門と左手に五重塔が。世界最古の木造建築です、素晴らしいですね。
中門の右側に
金剛力士像阿行(あぎょう)、
左側には、金剛力士像吽形(うんぎょう)。運慶ではない慶派の作品です。
そそくさと東門へ
夢殿で、今だけ限定、救世観音菩薩(くせかんのんぼさつ)立像が公開されているからです。
身長172センチ、聖徳太子の等身大と伝えられる救世観音像は僧行信が夢殿建立の際、本尊として迎えたものだそうです。
楠の一本作りで漆箔が施されているそうです。明治時代、岡倉天心とフェノロサが足繁く通って御開帳いただくまで1000年くらい秘仏としてしまわれていたため、金銅仏とみまごうばかりの艶やかさ。
(『日本の美仏50選』田中英道著、育鵬社より)
本では何度も拝見してますが、実物は遠目でしか見えないものの、美しいお像でした。
それにしても等身大で身長172とは、長身でらっしゃいましたね、聖徳太子さま。
また、夢殿には国中連公麻呂(くになかのむらじ・きみまろ)作の行信座像もありました!
こちらも本では何度も見ていましたが、3Dの実物は美しく気品漂う素晴らしい作品でした。
(『法隆寺とパルテノン』田中英道著、祥伝社より)
目がつり上がった様子が写真では印象的ですが、実物は全体の統一感が高く、また静謐さの中に秘められた躍動感が感じられ、公麻呂の実力の高さが伺われます。
美しかったです。
続いて、中宮寺にて、菩薩半跏(ぼさつはんか)像を拝顔しました。
(『法隆寺とパルテノン』田中英道著、祥伝社より)
有名なお像で、本やWebで何度も見ておりましたが、実物は圧巻でした。
あまりの美しさ、優美さ、穏やかさ、優しさにその場を離れがたい心境に。
半跏像(はんかぞう)とは、右足を左ももの上にあげ、右手を頬にあてて思惟されるポーズのこと。
思惟というより、私には優美な笑顔にうつりました。お像の周囲には、なんともお優しい落ち着いた空気が漂い、心がほんのり満たされる見事な作品でした。
かなり感動しました。
雨にけぶる中宮寺。やまぶきが幻想的。
同じ空間に、天寿国曼荼羅繍帳(てんじゅこくまんだらしゅうちょう)という7世紀の染織工芸品も。
聖徳太子のお妃の一人、橘大郎女(たちばなのいらつめ)が、太子の死を悲しみ太子の往生した天寿国とはどのような所か様子をみてみたい、と推古天皇に話したことから、この繡帷二帳をつくらせたそうです。
当初は、縦2メートル、横4メートルの帳2枚を横につなげたものだったとか。
(『聖徳太子展』東京都美術館主催図録より)
現在残っているのは、ごく一部、それもレプリカが展示されていました。
なにやら楽しげな様子、また亀が多く織り込まれていました。亀は万年、なのでしょうか。
(上図録を拡大したもの)
当時の人はこのようなファッションだったのでしょうか。
左上に、うさぎがお餅つきしているかのようなモチーフも。すっぽんチックな亀がどちらにも描かれています。
こうしたデザインが、着物や帯にも受け継がれているのでしょうか。
最後、法隆寺を背景に、集合写真。
というわけで、2日めは慌ただしく帰京しました。
見事に長い日本の誇らしい歴史、素晴らしい仏像と併せて堪能してきました。
まだまだ見るべきもの、たっくさんありますからね。楽しみです。
ヨーロッパ行ってる場合じゃなかったかも^^
ありがとうございました。
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