やっぱりスゴイ三内丸山(さんないまるやま)!遺物ザックザク

いよいよ今回の旅行のメイン、三内丸山へ!

 

三内丸山”縄文時遊館”

 

エントランス。

 

 

まず、館長さんからレクチャーいただきました。文化庁ご出身。

三内丸山は、最新の年代測定法から5900年~4300年前のものと推測されているそうです。

 

模型。広大な土地に住居や墓所、集会所のような大きな建物など、もっと密集していたと考えられます。

 

館長さんのご説明伺っている私たちが立っているところは、実際縄文時代に整地された道路だったのです。

最大幅12メートル、最小7メートルもあったことがわかっています。土木技術があったのですね。

 

八甲田連峰。美しい山並みを、縄文時代の人たちも愛でていたのでしょう。6000年前、大噴火があったそう。

 

 

そしてジャ~ン!”大型掘立柱”(なんだか寂しいネーミング)。用途はわかっていません。多分屋根があったと考えられています。なんでも当時の選挙前後の知事さんの意向で屋根なし展示となってしまったとか。

こんな巨大な建築物が、野ざらしのわけはないので、屋根をつけるべきたと田中先生は強くお考え。

しかも同様の建築物が、11個以上あったことがわかっているのに、1体しか復元というか展示されていません。

 

こちらは、建築物近くにあります、柱跡です。あの6本柱が実際はここで発見されたのです。

別の場所に再現されているわけです。なぜ現場ではないのでしょう?

直径1メートルの栗の柱が6本、柱と柱の間隔は4.2メートル。すべて35の倍数で設計されているそうです。

すごい!35センチとは10寸弱ですね。なにを基準としたのでしょうか。誰かの前腕でしょうか。

 

柱跡を覗き込みますと、このように。直径1メートルの栗の柱、しかも左右の列の柱が、それぞれわずかに内側に傾くように建てられていたそうです。

強度を上げるためでしょうね。我々日本人の5000年前のご先祖さまたちは、なんと立派な匠の技を持っていたのでしょう!

このような手の込んだ建築物が、一体なにに使われていたのでしょう!?

 

左側、6本柱の手前に、大型竪穴建物の屋根が見えます。

 

内部はこんなに広いのです。遺構から、ゼネコンなどと全体の設計を推測して構築しているそう。直径1メートルの栗の木の高さはどのくらいになるか、など。

こちらは集会場なのでしょうか。

想像がふくらみますね。

 

ガラスで覆われているのが、土抗墓。成人のお墓です。伸展位で埋葬されていたのでは、と考えられています。なぜならタテが250ミリ、ヨコが50ミリというサイズのものが多いから。

縄文時代の埋葬は、屈葬(赤ちゃんがお腹の中にいるときのように、ひざを丸めた姿勢)だとされてますが、異なる可能性も。

 

あの道路の両脇にも、お墓がつくられていたそうですので、住居と墓所が隣接しているわけです。

 

こちらは、子どもの墓所。子どもだけが埋葬されていた場所です。

実際、とりわけ1歳前後のものが多かったそうです。

 

説明にありますように、子どもの場合は土器に、丸い石などと一緒に埋葬されていたそうです。

 

こちらが実際の”棺転用土器”。使っていた土器の下部にわざわざ穴をあけて、そうして棺として使ったそうです。

儀式的なものなのでしょうか。土器の役目を終えた印なのでしょうか。

それとも、子どもの再生を祈ったものなのでしょうか。

 

子どもの遺骨とともに発見された丸い石たち。

 

館内の常設展示へ。

この犬は、柴犬の原型とも考えられていて、犬の遺骨から再現されたものだそうです。

一方、長年私は疑問に思っていたのですが、この子どもが着ている衣服は、単なる現代人の想像によるものだそうです。

顔も、実際の遺骨から再現するのは、”事情があって出来ない”と、館長さん。

縄文時代の陳腐なイメージが定着してしまって、学術的な思考から離れてしまいそう・・・

 

 

有名な縄文ポシェット。針葉樹(ひば)の樹皮製。くるみを入れていたそう。

かなりデザイン性高いですよね。そしてお仕事も丁寧で細やか。だって、4000年も存在し続けるって!

 

こちらも、よく見る土偶。土偶は、初期はこのようにジンジャークッキーのような平面のものが多かったそうです。

 

こちらはあの6本柱の底面。焦がした跡もあったそうです。防腐加工でしょうか。

直径1メートルもの巨木を、どうやって伐採、加工したのでしょう。

館長さんによりますと、石斧が使われたそうです。石斧の素材とみられるのが、

 

こうした異型石器。

 

こちらは、石ぞくという、矢の先端につけていたもの。狩猟のためですね。

こちらも匠の技が。

ヘアピンも、丁寧な細工が施されています。

 

大きな翡翠の原石も。巧みな加工技術があったのです。

そうそう漆を使った器もありました、5000年前ですよ!

 

石斧の素材は、すべて北海道産。翡翠は富山県糸魚川から、琥珀は岩手県から。

というわけで、交易がなされていたわけです。通貨の代わりにどういうシステムを使っていたのでしょう。

 

こちらは、大量にあったとされるニワトコの種、やまぶどう、木苺、ショウジョウバエのさなぎ、などが大量に出てきたそうです。

お酒を作っていたのでしょうか。季節の恵みを保存していたら、たまたまそうなってしまったのでしょうか。

田中先生のお話では、縄文人はお酒を作っていない。だからお酒を分解するアルデヒド酵素が日本人に少ないのだそう!

な~るほど。脈々と受け継がれているのですね、縄文人の生活がわたしたちの体へ。

 

動物の土偶

 

土器の陳列。下が古くて上に行くほど新しくなるそう。デザインの変遷。

 

大量にあります縄文土器。

 

そうそう、よくこのような竪穴住居が、縄文遺跡につくられています。

茅葺きのものが多いように思いますが、それら形状素材は、あくまで想像によるものだそうです。

掘り込まれ成形された住居跡のみが、残っていて柱跡などから推測された形状だそうです。

 

というわけで、慌ただしく三内丸山を後にしました。田中先生と館長さんとみなさまと。

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