縄文文化をたずねて
歴史学者で西洋美術史の大家、田中英道先生と行く、”文化旅行”に参加してまいりました。
千葉県館山市にある安房(あわ)神社。シンプルな鳥居です。
御祭神は、天太玉命(あめのふとだまのみこと)。のちに忌部氏(いんべし)となり、天兒屋根命(あめのこやねのみこと、のちの藤原氏)とともに、祭祀王となられたそう。
日本のすべての穢れをはらうお役目だそう。
境内にある洞穴。関東大震災の復旧工事中に、偶然発見されたもの。発掘すると、人骨や土器、貝輪などが出土し、縄文時代晩期の墓地、とされています。
晴天のお空に、龍のような雲が!いい感じ~♪
境内にある地層が隆起したもの。千葉ってかなりダイナミックな隆起が繰り返された跡があちこちに。
大祓祝詞には、”大大和日高見国”とあります。
大和は奈良、日高見国は、関東にあった、というのが田中先生の斬新なお考え。数々のご研究でそれを証明されています。
日高見国、高天原(たかまがはら)は、”天上”世界のように考えられてきましたが、縄文時代の”日高見国”がそれ。
西域からの防衛のため、天孫降臨して、西へ向かった、というお考えです。
緻密な田中先生のご研究によって、かなり一貫性のある国史が誕生したと、私は考えます。かなり面白い歴史です(学校での日本史は、ホント退屈でした)。
そう、ですから関東が歴史のはじまり。高皇産霊尊(たかみむすびのかみ)がいらしたのです。
大体、この高皇産霊神がどういう位置づけか、これまできちんと説明されたことはなかったように思います。
なぜならば、日本は le soleil levant(日出る国)。古代の人々は、みな太陽信仰を持っていた、と考えられるからです。
日本の東端に、縄文遺跡が集中していることも、有力な裏付けでは。
ですから、四国の阿波から、安房神社が誕生、ではなく、そもそものオリジンが安房神社であった、という考え方です。
そうあのレヴィ・ストロースも、日本の神話だけが、歴史との連続性を持っている、と評したとか。
天照大神が、機織りさせていた、とか結構現実的なストーリーありますもんね。
続いて、船越鉈切神社(なたぎり)へ。こちらはシンプルな鳥居。
道をはさんで反対側にあります、海南刀切(なたぎり)神社。こちらは、赤いし形も装飾的な出雲系。
こちらは、狛犬も。
境内にある洞穴。神様がナタで切った、という伝承からの名前のよう。
なかなかダイナミック。地殻変動が繰り広げられたわけですね。
ほこらも。
こちら、拝殿の羽目板ですが、天岩戸開きが描かれています。明治時代の後藤庄三郎忠明の作品だそう。
かなり見事な出来栄えです。岩戸の奥行きや、神々しいばかりの光の表現など、見入ってしまいました。
左側には、スサノオのヤマタノオロチ退治ですね。
こちらは、拝殿正面にあった、見事な龍。残念なことに台風で落ちてしまい、修復されないままになっているそうです。復元していただきたいですね。
氏子のみなさまが、しめ縄づくりをされてました。のどかな光景ですね。
見物海岸。まっさおな太平洋。
みんなでお弁当をいただきました。気持ちよかった~。
久しぶりの海です。そう、天も海も、”あま”。
千葉市にある加曽利貝塚(かそり)へ。
縄文時代の貝塚は、日本全国に2400ヶ所。そのうちの120が、千葉市に集中しているそうです。
貝塚の断面が見られるようになっています。
こ~んなに緻密な層になっていて。貝塚って、ゴミ捨場、ではありません。
生き物である貝をまつった神域なのだそうです。貝だけでなく、動物の骨なども。たしかに整然と重ねられています。
敷地内の博物館では、土偶や
芸術性の高い土器、
発掘された丸木舟も。これで、カツオやマグロを獲っていたって!
最後は、
江戸東京博物館へ。
縄文時代の海岸線。丸木舟での移動が多かったのでしょうね。こんなに海が入り組んでいた!
都内、多摩ニュータウンや雪谷、奥多摩などで発掘された土器がたくさん陳列されていました。
なかなかの力作ばかり。
漆をつかったものもありました。
漆って、世界的に日本で最初に使われたそうなのです、ジャパンって言いますよね、そういえば。
よもや縄文時代とは思えませんよね!
こうした作品の数々を、美術史の大家、田中英道先生のお隣で、一緒に鑑賞させていただき、なんと幸せな!
これら縄文土器の装飾には、写実性を拒否する、抽象意志、装飾意志があり、根底には水信仰があったのでは、というのが田中先生のお考え。
こちらは、”多摩ニュータウンのヴィーナス”。
というわけで、1万6000年前の縄文の時代から、日本は一度も途切れることなく、日本という国だったのです。
大切にしたいですね、本当の歴史、日本というお国柄。
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